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Posted by マダスカス
 
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運命について
 ネコソギラジカルに出てきたので、運命について考察してみました。

 戯言シリーズの“ネコソギラジカル”において、木賀峰約と西東天は運命について次のように述べています。


 木賀峰約は、「運命は存在します。しかし、その運命とは、自分で切り開くもの。(以下省略)」

 西東天は、「(前略) 運命は受け流すもの、これは基本。運命を切り開こうなんてのは傲岸不遜の三乗倍だ――俺たちは運命に流されてるんじゃない、運命に流していただいているんだからな。(以下省略)」


 この二人の言葉は、とても対照的です。前者は運命を能動的・可変なもの、後者は受動的・不変なものとして捉えています。まあ、ここでの“運命”とは、死というものは決まっているのでそこに至るまでの過程ということでしょう。なので二人の“運命”を例えるなら、選択肢のあるアドベンチャーゲームと一本筋のノベルゲームといったところです。


 しかし、この二人には共通点があります。それは“運命は存在する”ことを前提としている点です。


 そこで、私は一つ疑問に思いました。事象は観測者がいてこそ存在が確立されます。では“運命”とは本当に存在するのだろうか、と。

 その疑問について思いをめぐらしているうちに、一つの考えに至りました。


 それは“運命と結果は同じものではないのか”というものです。


 もちろん、厳密にいえば意味の違いはあります。けれども、そういう風に考えると辻褄が合うのです。

 「事故にあうのは運命だったんだ」とか「あなたは運命の人だ」など、結果を前提とした発言です。もし事故にあわなければ、その人に会わなければ考えもしないことですから。


 ということで、私の運命についての結論は、“自分が通ってきた過去≒運命”です。自分で選ぶことができて、尚且つ不変なもの。二人の考えのどちらにも当てはまりますね。


Posted by マダスカス
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[雑記
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